御救借屋と伝わる町屋


昨日の『京都新聞』夕刊に掲載された記事http://d.hatena.ne.jp/hamano/20070522であるが(自宅に帰って見たら1面トップ記事で驚いた)、実は3月の電話取材の後、現地(下古城町=しもふるしろちょう)を一度踏査して写真を撮ってあった(↑)。取材の時点では「御救長屋」という言い伝えの情報しかなく建物を見たわけではなかったが、現地へ行くと周囲が2階建て以上なのに、平屋で残っていたのが印象的であった。

これだけ長期に使われたとすれば「仮設住宅」というたとえは問題があるかもしれない。史料には「仮屋など立て」という表現もあり、確かにこういったものもあったようだが、御救借屋はより恒久的な建物だった可能性が高まってきた。[追記]今、インタビューされたら「復興住宅」とでもいうだろう。

建物外観はそれほど古くないので、大正期という専門家の見立てはもっともである。問題は幕末の建築部分がどれだけ残っているかという点で、ぜひ取り壊し前に調査をしてほしいと思う。7月の研究会(下記参照)でアピールしようと思うが、間に合うかどうか心配である。